かさなる 白いモラトリアムサマー

かさなる白いモラトリアムサマー 5話(2/2)

投稿日:

作:武田まな

森野カオルが二度目の電話をしたのは、今から三日前だった(一度目は留守だった。だから公開したばかりの映画の感想を伝言メッセージに残しておいた)。アルバイトの帰り道、エロティックな落書きが施された電話ボックスからかけたのだ。

その時、エマ先輩はレモンを齧りながらペリエを飲んでいた。どんなに疲れていても、どんなに気が滅入っていても、良く冷えたレモンに齧りつけば、無条件にハイになれた(おまけに美容にも良いときたもんだ)。とくれば、夜の十時過ぎのけったいな電話にも出てしまう。

「もしもし、杜葉です」

「あ、先輩。えっと……」と声が小さくなる。まさかワンコールでエマ先輩が電話口に出るとは思わなかったのだ。

「その声、伝言メッセージに映画の感想を長々と述べ立てたうえ、ネタまでばらしてくれた森野カオルね」

「近日公開するミステリー映画のあらすじ、今から話してもいいですか? たまたま原作を持っているんです、僕」

「してもいいけど、秒数足りる?」

エマ先輩はテレフォンカードの減っていく秒数のことを言っていた。

おや、全てお見通しというわけか。そんな風に勘が働くとき、エマ先輩はレモンを齧っていることが多かったな、と森野カオルは思い出した。

「ところでエマ先輩。今、レモン齧っていませんか?」

「ど、どうして分かったの?」

「レモンの香りがするから」

「はいはい」とエマ先輩は、そっけなく返事をした。それから、レモンに齧りつきペリエで流し込んだ。

その一連の音が受話器から微かに聞こえると、レモンのイメージが森野カオルの胸をかすめた。要件をさりげなく切り出せたのは、そのおかげでもある。

「今度の日曜日、ロケーションハンティングに行こうと思うんです」

「いいわよ」

「もし都合がよければ、一緒に行きませんか?」

「ねえ、いいわよ」

「晴れるって、天気予報で言っていましたし」

「……」森野のドジ。

「で、どうですか?」

「だからいいわよって、さっきから言っているじゃない」

「えっ、いいんですか?」

「何度も言わせないでよ。あんぽんたん」

「すみません」

「ねえ、森野」とエマ先輩は言い、短い沈黙を挟んで「どこか遠くがいいわ」

「僕のチープな軽自動車でよければ」

「ちゃんとエンジン修理しておいてよね」

「yes」

「じゃあ、十時に迎えに来て」

「分かりました」と森野カオル。そして、姿勢を正すと言った。「じゃあ、おやすみなさい」

「ええ、おやすみ」

そして森野カオルは、受話器を置いた。不思議とレモンのイメージも消えた。

 エマ先輩は電柱にもたれて空を仰いでいた。

空は翼を持つ者だけが飛ぶことを許された青い世界。そこへの行き方は、本能で知るのだ。言葉や文字で知るのではなく本能でだ。野性的な魅力が宿るのは、そのせいなのかもしれない、と考えていた。なので溜息が漏れても仕方がない。ふはぁ……。

「ねえ、森野。いったいいつになったら目的地に着くのかしら?」

 車をジャッキアップしながら、森野カオルは答えた。

「ん、何か言いました?」

「さあ、忘れちゃったわ」とエマ先輩は、溜息交じりに返事をした。

「何か忘れ物でもしたんですか?」

「忘れ物か……あのフルーツパーラー、美味しそうだったな」

とある高原に向かう道すがら、突如、軽自動車のタイヤがパンクした(レモンと一緒に電子レンジへ詰め込まれたのは、タイヤだったのか、と森野カオルは合点した)。とくれば、二人はただの鉄の塊と化した車とやらを路肩に押す羽目にもなった。そして、今、スペアタイヤに交換する作業の真っただ中というわけだ。

「エンジンは点検しておいたんですけどね。まさか、こんな事態になるなんて。すみません」

「しょうがないわ。気にしないで」

「でも、せっかくの休日なのに」

「森野から休日をもらっているわけじゃないし」

「まあ、そうですけど」

「あのさ」とエマ先輩は言い、空のある一点を見据えた。

「ん、どうしました?」

返事を省略してエマ先輩は、右手を空にかざした。本能に根差した何かが、そうさせたのだ。

「先輩?」

続けて森野カオルは言った。

「エマ先輩?」ジャッキを回す手を止めてエマ先輩の様子を窺った。

「……」

 空を飛ぶイメージが、右手から柔らかく染み込んできた。ざらついた気分がほぐれていく。ムッとしていたことがバカらしくなる。このくらいのトラブルなんざ取るに足りないではないか、杜葉エマよ。笑え。

森野カオルは不安げに目を細めると怖々言った。

「急にどうしたんですか? 笑みなんか浮かべて」

「どうもしないわよ。ただ思い出しちゃっただけよ」

「何を思い出したんです?」

「誰かさんの鼻唄よ。つい一年前まで、鼻歌が自分にしか聞こえないと思っていたなんて可笑しいじゃない。傑作よね」

「その話。もうしない約束だったと思うんですけど?」

「そうだったかしらん?」とエマ先輩は、シレっとはぐらかした。何度も繰り返し思い出せる過去を、そう易々奪われてたまるか。「タイヤ交換、私も手伝うわ」

「手汚れますよ」

「そんなの構わないわよ。ほら、その道具貸して」

「嫌です」

「いいから、それ貸しなさい」

「……やっぱり嫌です」

「森野。先輩の言う事はきくものよ」

「その言い草、おっさん臭いですよ」

「あ、そういうこと言うんだ。さしもの私に向かって」

「今のは売り言葉に買い言葉っていうか……」

「隙あり!」とエマ先輩は言い、森野カオルから工具をせしめた。

つづく


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