作:武田 まな
「先輩。缶コーヒー、ホットでいいですか?」
「いいわよ」とエマ先輩は、宙を見据えたまま答えた。
「やっぱり違うのがいいって、急に言わないでくださいよ」
「言わない」と今度はため息交じりに答えた。
森野カオルは自動販売機から缶コーヒーを取り出すと、エマ先輩に手渡した。
そして二人は、スーパーマーケットの表にあるベンチに腰掛けると、缶コーヒーを口に運んだ。
「何か飲まない?」と自動販売機の前で提案したのは、エマ先輩だった。その理由はある事を確かめるためでもある。というのは、今起きている出来事にズレが生じているのか? 外部からなにかをインプットすることで、それを確かめることにしたのだ。そして、その結果、流し込んだ液体は、紛れもなくあの手の味がした。だから大丈夫。私は少し疲れているだけなのだ。エマ先輩は自分自身にそう言い聞かせると、両足をぶらぶらさせはじめた。
「あのさ、森野。退屈って悪いことじゃないのね」
一瞬、エマ先輩が何を言ったのか、森野カオルには分からなかった。それは彼女の無邪気な仕草が原因である。
「そうですね。退屈じゃないと寛容になれませんしね」
「でしょ。今まで誤解していたみたい、私」
「誤解が解けて何よりです」
「ねえ、タバコってある?」
「ありませんよ」と答えてから、缶コーヒーを口にしようとしたが止した。「エマ先輩、タバコ吸うんでしたっけ?」
「ううん、吸わないわよ」
パンプスが脱げ落ちて、エマ先輩の足の動きが止まった。
「あの、タバコの代わりってわけじゃないですけど、バナナ食べます?」
「バナナ?」
「ええ、さっき買ったバナナです」と森野カオルは重ねて言い、袋の中からバナナを取り出した。
「じゃあ、遠慮なく頂こうかな」
エマ先輩はバナナを受け取ると皮を剥きはじめた。
裸になったバナナは蠱惑的だった。いや、それ以上にエマ先輩の方が蠱惑的だった。森野カオルは缶コーヒーの原材料名に目をやって気を紛らわした。
そうしていると、とある疑問が胸をかすめた。何故だろう? 二人の間にあるはずの一年という時間の存在が感じられない。
森野カオルは夜空を仰いでその理由を探した(なんとなく上にあるような気がしたのだ)。言わずもがな夜空は果てしなかった。探し物が見つかるか不安にもなった。そんな時だった。小さな声が降って聞こえたのは。
「後悔か……」
「先輩。今、何か言いました?」
「ううん」
「そうですか」
色々と探られたくなかったエマ先輩は、どうでもいいことを言って誤魔化すことにした。「森野、腕時計見せて」
「腕時計? 別に構いませんよ」と森野カオルは言い、腕時計を外してエマ先輩に渡した。その代わりに、エマ先輩からバナナの皮を受け取った。バナナの皮には、エマ先輩の体温がわずかに残っていた。
腕時計をせしめたエマ先輩は、とりあえず時間を確かめた。
「森野の腕時計、十二分遅れているわよ」とエマ先輩は言い、自分の腕時計と森野カオルの腕時計を並べて「ほら」
次の瞬間、森野カオルは二つの腕時計に目をやるつもりだったが、エマ先輩の野性的な瞳に目をやった。
「ねえ、見る所、違うわよ」
「わかってます」
「じゃあ」
遮るようにして森野カオルは言った。「先輩、後悔しているんですか?」
「えっ」聞こえいたのか。まったく……。エマ先輩は一呼吸置くと口を開いた。「あのね。今夜、友人が催した食事会があったの。ホテルのレストランでね。そこを抜け出してきたの、私。それだけよ。それだけ」
エマ先輩は唇をギュッと結んだ。
「そう……ですか」
「うん」
「あの……僕のチープな軽自動車でよければ、アパートまで送りますよ」
「気が利くじゃない。森野のくせに」
「一言、余計ですよ」
「あら、そ」と切って捨てると、腕時計を森野カオルに返した。
そして二人は、ベンチから立ち上がり車に向かった。それから、森野カオルの軽自動車に乗り込もうとした時だった。エマ先輩はドアノブを掴んだまま俯いて告げた。まるで心の隅に留めておいてといった風に。
「今日、アルコール飲んでいなから」また、こうも告げた。「それ嘘じゃないから」しかし、それは嘘だった。どうしてつまらない嘘なんかついたのだろう? なんだか自己嫌悪。
「わかってますよ」と森野カオルは言い、車へ乗り込んだ。そして、荷物を後部座席に置くとイグニッションキーを回した。しかし、エンジンはかからなかった。
エマ先輩はドアノブを掴んだまま動こうとしなかった。
森野カオルは何も言わずに待つことにした(大丈夫、エマ先輩ならきっと)。
ややあって、エマ先輩は車に乗り込むと静かに言った。
「出して」
しかし、チープな軽自動車は微動だにしなかった。
「ねえ、どうしたの? 出発しないの?」
「そうしたいのは山々なんですが、少し待ってもらっていいですか?」
「何でよ? どうしてよ?」
「エンジンの調子、悪いみたいで」と森野カオルは言い、首をすくめてみせた。
うむ、ここにパイがあったら顔面めがけて投げていただろう、とエマ先輩は思った。
つづく
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