作:武田まな
森野カオルが図書室に到着すると、蔵木ミカは本を返却しているところだった。姿勢が良いものだから、本を返却するというごく日常的な動作すら、彼の目に可憐に映ったりする。
「あ、森野先輩。その顔どうしたんですか? まるで慌てて走って来た人みたいですよ」と蔵木ミカは、シレっと言った。
今し方受けた印象は、即座に消去させてもらった。「そうさせた張本人が、今僕の目前にいるんだけど?」
蔵木ミカは思わせぶりな目顔をして、返却窓口に立つ三十代とおぼしき女性にあらぬ視線を送っていた。
女性はハッと何かに気づいたらしく、乱れてもいない髪や衣服を整えはじめた。それから、はにかんだ様子で俯き慎重に呼吸を繰り返していた。
森野カオルは、蔵木ミカの腕を掴み窓際の席に引っ立てた。
「誤解を招くようなことをするな」
「日常をよりドラマティックに演出しただけですよ、あたし」
「それにしたって」
蔵木ミカは先取りして言った。
「わかっています。少しやりすぎました。人の気持ちをもてあそぶのって良くないですよね」
「次からは気を付けるんだぞ」
「へーい」と甘えた返事をして「先輩といる時だけですよ。こんな風に羽目を外すの」
しかし、その言葉は大きなあくびをしている森野カオルに届いていない。
「何だ? 蔵木。その顔は?」
「何でもないですよ」
「そっか。で、お礼はティラミスでいいか?」
一瞬、何に対してのお礼なのか、蔵木ミカにはわからなかった。しかし、それを思い出したと同時に、うっかり返事をせずに良かったと安堵した。
蔵木ミカは指を三本おっ立てると、森野カオルの鼻先に突きつけた。ついでに自慢の笑窪と八重歯も見せつけた。
「何だ、その指と顔は?」
「ほれ、ほれ」引き続き三本の指と八重歯を見せつけて、謎めいたアピールを続けた。
森野カオルは取り合わずにやり過ごそうとしたが、そのうち彼女の指が両目に突き刺さってきそうで、妥協点を探ることにした。
「二回じゃダメかな?」
蔵木ミカは首を左右に振りはじめた。三本の指と八重歯、それに首振り運動が加わり収拾がつかない模様。そんな中、午後の講義開始を告げるチャイムが鳴った。
「先輩、講義さぼるの、初めてなんですよ、あたし」
「……わかったよ」
「よし」と蔵木ミカは言い、オリジナリティー溢れるガッツポーズを決め込んだ。「あたし前から『パステルオリーブ』というお店のティラミス、食べてみたかったんです」
そのお店の名は、高橋と桃井から聞いたことがあった。最寄りの駅から遠く、値段も張るうえ、やたら長い行列ができる、と二人は言っていた。何より質より量をとる学生には、不向きだとも。いずれにせよ、金欠病には大きな痛手である。そう考えながら森野カオルは、光合成で栄養を補える植物のことを羨ましく思った(そういえば自分の名前、植物みたいだな。ということは、できるかもしれない)。
「先輩、できるかもしれないって何のことですか?」
「いや、なんでもない。こっちの話だ」
「そう……ですか」
「ともあれ、蔵木」エマ先輩から拝借した二つのスケッチを並べて「一先ずこのスケッチ、観賞してみてくれないか」
「これが例のサジェスチョンと関係するわけですね」
「YES」
つづく
アウトドアにまつわるショートショートを綴っています。
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