作:武田まな
机に突っ伏していると、雨音と冷蔵庫が唸る音に紛れてノックの音が聞こえた。それから、森野カオルとおぼしき声も聞こえた。きっと空耳だろう、とエマ先輩は結論付けた。が、念のため床に転がっている受話器に目をやった。受話器の電源はOFFだった。それにもかかわらずまた声がした。
「先輩、起きていますか?」
おかしなものでその声は、ドアの向こう側から聞こえた。まさか! エマ先輩は急いで玄関に向かった。
「カ、カオルなの?」
「夜分遅くにすみません」と森野カオルは、ドア越しに返事をした。「さっきのアナグラム、解読したんです。だから来ちゃいました」
「アナグラム? いったいなんのこと?」
「たいしたことじゃないって、電話で言っていたじゃないですか。そのアナグラム、解読したんですよ。たすけてベイビー、てね」
なんだそりゃ。どこがどうアナグラムだっての。
エマ先輩はドアを開けた。すると雨に濡れた森野カオルが突っ立っていた。はっきりとしない光に照らされて、メガネから雫を垂らして、笑みなんか浮かべて、スニーカーの紐を引きずって、なんてざまよ。
森野カオルはあっさり首をすくめると、スニーカーの紐を結ぼうとした。それを遮るようにして、エマ先輩は言った。
「中に入って。今、タオル持ってくるから」
「すみません」
「まったく、カオルときたら」
「まだ学生だから、こんな向こう見ずなことしちゃうんですよ」
「はいはい。大人しくそこに座って待っていること」とエマ先輩は言い、ソファーを指さした。それから「あまりキョロキョロしないでよね。ちらかっているから」
「えっと努力します。で、いいですか?」
「いいわけないでしょ」
ブロカント風な家具と、こまごまとした日用品が仲睦まじく共存している部屋だな、と森野カオルは思った。一方、床に転がっている受話器と、派手に乱れているベッドが人間味にあふれていて悪かない、とも思った。
キョロキョロし終えた森野カオルは、ハンガーにぶら下がっている皺ひとつないブラウスに目をやった。学生はどう転んでも社会人の気持ちにはなれやしないのだ。その反対はできるのに、と考えながら。
「はい。タオル」
「ありがとうございます」
「で、何を見ていたの?」
「えっと、コットンです」エチケットのつもりで、ブラウスという表現を変換したのだ。
「コットン?」
「ええ、まあ」
一呼吸置くと、エマ先輩はため息交じり言った。「あきれた」それから、コーヒーを淹れるため湯を沸かしはじめた。
濡れた髪や洋服をタオルで拭き終えると、森野カオルはコーヒーの準備をするエマ先輩の後姿に見とれていた。彼女の不機嫌な感じに乱れたワンレンボブと、猫のイラストが描かれたTシャツが、彼を申し分ない気持ちにさせた。
あらぬ視線を感じ取ったエマ先輩は、振り向くと目を細め不届き者の表情を伺った。
不届き者は表情を工夫しつつ首をストレッチして誤魔化した。
そんなくだりが何回か繰り返された末、テーブルの上にコーヒーカップが二つ並んだ。エマ先輩はその内の一つをつまむと、息を吹きかけて一口すすった。それから、口を開いた。
つづく
信州のアウトドアにまつわるショートショートを綴っています。
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