作:武田まな
午後の講義がはじまると、里実ワカバはルーズリーフに公式を書きなぐっていた。そうやって、あれこれ思索にふけないよう努めたのだ。
しかし、何かのはずみで思索してしまいそうになる時があった。そんな折は、まばたきの回数を数えたり、クローゼットの中のワードローブのことを考えたりして気を紛らわした。いずれにしてもアドホックな対応である。どのみち効果が無くなるのは、目に見えている。だから、そうなる前に手を打つことにしたのだ。よし仮説を立ててみよう、と。
そして里実ワカバは、ある仮説を導き出した。
あの女性は、森野カオルの想像上の人物で、景色からインスピレーションを受けて描いたものなのだ。きっとそうだ。違いない。けど、何故そうしようと思ったのだろう(景色フリークなのに)? 何か理由があるはずだ。何か理由が……。こんな仮説では、ちっとも不安を溶かすことができやしない。いっそ隣に座る友人のエミカに打ち明けて、客観的な意見を訊いてみようか。私の気持ちエミカは知っているし。でも……。
そうこうしていると、頭の片隅に紙飛行機のイメージが居座っていることに気が付いた。そのイメージの源泉は、スケッチブックに描かれた紙飛行機だった。
里実ワカバはそのイメージに導かれるようにして、ルーズリーフを一枚取り外すと、紙飛行機を折りはじめた。
紙飛行機を折るのは、久しぶりだった。最後に折ったのはいつだっただろう? 高校生? 中学生? ともかく、新鮮な気持ちで作業に集中することができた。
完成した紙飛行機は、数年のブランクがあったにしては悪かない出来映えだった。そう思ったからには、飛ばしてみたくもなる。きっとカオルがスケッチした紙飛行機のように飛んでくれるはずだ。なめらかに、どこまでも、どこまでも、あっ。
手から紙飛行機がずり落ちた。というのも、あの女性の正体に気付いてしまったからである。あるいは思い出したと言うべきか。
あの人は杜葉エマ先輩だ。長かった髪がワンレンボブになっているものの、あの感じ間違いない。今ならはっきりそう断言できる。
次の瞬間だった。どこからともなくウエットな音がした。また、金臭い匂いもした。それらにつられるようにして、里実ワカバは視線を落とした。すると、ルーズリーフの上に、真っ赤なドットが描かれてあった。へえ、鼻血か。これも久しぶり。てっきりこの癖、治ったと思っていたのに、そうじゃなかったのか。
里実ワカバはバッグからティッシュを取り出すと、慣れた手つきで鼻血の処置をした。
それが終わると同時に、隣の席からエミカの声が聞こえてきた。
「ねえ、ワカバったら」
「ん?」
「さっきから呼んでいたのに、気づかなかったの?」と言い、深刻な顔をして「ねえ、それより大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ」と里実ワカバは答えた。おかしなものでその声は、自分が思っていた以上に張はりがあった。
「ほんと?」
「うん。こういうの慣れているから、私。昔から鼻血の常習犯だったの」
「そんなの初耳よ」
「ねえ、エミカ。お手洗いに行ってくるわ」
「私も一緒に行こうか?」
「ううん。平気だから」里実ワカバはそう答えると、席を立ち静かに階段教室を後にした。
つづく
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