作:武田まな
……無意識だった。気が付くと里実ワカバはスケッチブックに手を伸ばしていた。そうしていると意識しても、その手を引っ込めようとはしなかった。その方法がわからなかったのだ。わかったとしても、もう遅い。
そして、スケッチブックを手にすると頁をめくった。次の瞬間、彼女の目に触れたのは、未完成の湖のスケッチだった。いや、そのはずだった。つまり、そうではなかったのだ。
彼女の目に触れたのは、女性のスケッチだった。ワンレンボブの女性が、右手にレモンを握りしめ、湖を見つめているスケッチ。人も、景色も、レモンも、静けさも、美しかった。洗練されている。ん? 里実ワカバはあることに気が付いた。
まず一つは、相変わらず流麗な線で描かれているのだが、いつもの絵のタッチとは何かが違っている、という点だった。しかし、その違いを言葉では表現できなかった。ただただ、漠然とそう感じるのだ。そうだと感じさせる気配が、絵の中に漂っているのだ。あるいは、紙の中に。
そして、もう一つ。人物を描いたスケッチを初めて見た、という点だった(記憶を巻き戻してみがそうだった。カオルはことさら景色フリークである。人物は描かない)いったい彼の中で、どんな心境の変化があったのだろう? 気になる。胸騒ぎがする。
里実ワカバは唇をギュッと結んだ。そして、恐る恐る頁をめくった。次の頁に何かヒントがあるかもしれない、と思いながら。
しかし、ヒントの代わりに現れたのは、またしてもさっきの女性だった。今度は高原のような場所である。シャツワンピに素足という格好の彼女は、空を飛ぶ紙飛行機を見上げていた。そんな彼女の体は、ほんの少し宙に浮いているようにも見えた。どことなくフェアリーめいている。
……
しばし、思考がショートしていた。里実ワカバは我に返るとスケッチブックをもとの位置に戻した。そして、ベンチに深くもたれると眉をひそめた。何がどうなっているのか理解できないや。頭の中が真っ白だ。知らない出来事を受け入れることが、こんなにも切ないだなんて。
ややあって、遠くから足音が聞こえてきた。ゆっくりとした足取りだった。どうして走ってこないのだろう? と里実ワカバは思った。けど、その方がいいではないか。いつもの私に戻る時間が必要だもの。
「里実ワカバ、発見」と森野カオルは、里実ワカバの背後から無邪気に声をかけた。
「へえ、ほんとだ」ベンチの背もたれから体を引きはがして振り向くと「意外と驚かないものね」
「ようやく、わかってもらえたかな」と森野カオルは言い、里実ワカバの隣に腰掛けてクロワッサンを口にくわえた。「里実、急がないとベーカリーショップのクロワッサン、売り切れるぞ」
「そう……だよね。売り切れちゃうよね」
「そうとも」
「ねえ、カオル?」
「ん?」
「ひも……」里実ワカバはポツリと言った。「スニーカーの紐、解けているよ」
「あっ」
そして森野カオルは、クロワッサンを口にくわえたまま前かがみになり、少し息苦しそうにスニーカーの紐を結びはじめた。
そのくだりも、よく見かけるシチュエーションである。なのに、いつもとは違って見える。なるほど、そういうことか、あのスケッチのせいだったのか、と里実ワカバは合点した。
「カオルのドジ」
「僕もそう思うよ」と森野カオルは、スニーカーの紐を結びながら言った。
「ドジは、私の方かも」と里実ワカバは、小さな声で言った。まるで眠っている人に向かって囁くみたいに。
「ん、今、何か言った?」
「ううん。何も」
「可笑しなやつ」
「へへ」それは心の様子を悟られないための笑いであった。どうしてそんなことが、いとも簡単に出来るようになってしまったのだろう? と里実ワカバは不満だった。
つづく
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