作:武田まな
大学の近所にあるベーカリーショップでクロワッサンを買うと、森野カオルはいつものベンチに向かった。
森野カオルが目指すいつものベンチには、高橋とエミカが腰掛けていた。そんな二人の目前で、里実ワカバは木陰と日向の境を目印にし、片足を上げバランスを取る身振りをしていた。
「ワカバ、新記録じゃない?」とエミカは言い、拍手を送った。
「そ、そうかな」と息をはずませて「おっとっと」
「よくわからないけど、すごいじゃないか。里実くん」高橋も祝福のコメントを送った。
「今、集中しているから、話しかけないで」と里実ワカバは制した。
「そうよ。邪魔しないの。気の抜けたジョークだって披露している場合じゃないの。今、大事なところなんだから。ほら頑張ってワカバ!」
気の抜けたジョーク? それについて高橋が意見しようとしたときだった。三人は森野カオルの姿を捉えた。それと同時に、里実ワカバはバランスを崩してしまった。
三人の視線を浴びて森野カオルは、口を開こうとしたが、それよりも先に里実ワカバが言った。
「カオ……森野君、一つ忠告。いつもお昼にクロワッサンばっかり食べていると、あれだよ」
呼び名が変わった。その一言で高橋とエミカは、昨夜、あれから何が起きたのかを察知することができた。
「うむうむ。ほんと森野はあれだな」と高橋は、里実ワカバの言葉に重ねた。
「そうそう。森野君はあれなのよ。あれの中のまさにあれ」エミカも、そう言葉を重ねた。
「ねえ、今度、お弁当作ってあげようか? 一人分作るのも、二人分作るのも同じだもの」一呼吸置くと続けて「冗談よ。ポジティブでしょ? 私」それから、里実ワカバは首を傾げて微笑んだ。いつも通りを演じることで、ある程度の不安は和らぐのだ。だが、それは対処療法でもある。ピリオドはもう変えられない。
接ぎ穂を得た森野カオルは、「無理するなよ」言った。
「心配ご無用!」
「そっか、タフだな」
「もっと可愛く褒めてよ。何だか嬉しくない」
里実ワカバは回れ右をして口を尖らした。
「そうよ。女の子には、可愛く丁寧に褒めなくちゃ」とエミカは言い、男共に向かってハジキを構えるといった風に指を差しトリガーを引いた。「おわかり?」
男共は両手を上げて「よく分かりました」と返事をした(てか、もうすでに撃たれている)。
それから、森野カオルはスケッチブックと、バッグを芝生の上に放り投げて仰向けに寝ころんだ。
夏の日差しが眩しかった。せっかくだから、その日差しで光合成でもできたらな、と森野カオルは思った。しかし、二階の窓から顔を出した不届き者のおかげで、日差しは遮られてしまった。
「森野先輩。さっきのあれっていったいなんのことですか? あたし気になっちゃって」
逆光線の中の黒いシルエットは、森野カオルにそう言った。
「あれって光合成のことだよ」
「光合成? 適当なこと言ってごまかさないで下さい」
「蔵木には関係のないことだから、適当に言ったって構わないだろ」
「女の子には可愛く丁寧に褒めるよう言われたばかりじゃないですか?」とシルエットは、とげとげしく言った。「そう言葉通り接して下さい。でないと、男がすたりますよ」
黒いシルエットの正体は、地理学部三年の蔵木ミカという人物である。チャームポイントは笑窪と八重歯だと自己申告しているが、それ以上に目立っているのが彼女の姿勢の良さである(あけっぴろげな性格とは裏腹に、凛とした姿勢なのだ。そのおかげで森野カオルは、黒いシルエットが誰なのか直ぐに気付くことができた)。ちなみに二人の関係は、図書室の常連客といったところである。
「そういえば、蔵木。もうそんな時間か?」
森野カオルの左手が僅かに動いた。腕時計に目をやろうとしたのだ。しかし、腕時計は里実ワカバのアパートメントに置き忘れたままである。
「いえ、まだ約束の時間じゃないですよ。たまたま歩いていたら、森野先輩の声が聞こえたので顔を出してみたんです。いわゆるチープな偶然を体験してみた、というやつです。だから、まだゆっくりしていてくださいな」と蔵木ミカは言い、声のトーンを半音下げて「あたしは一足先に行って、一人さびしく綾取りでもしながら待っていますけど」
「わかったよ。今から向かうよ」そして森野カオルは、起き上がると高橋に言った。「ごめん。約束があって。それじゃあ、また」
「……だとさ」と高橋は言い、女子たちに向かって首をすくめてみせた。
里実ワカバは森野カオルが図書室めがけて走って行く様子を見つめていた。あんな風に意識せず無邪気な会話を交わすことがもうできないのか、と考えながら。それ以上を望んだ結果が今なのか、と考えながら。視界がクリアになったおかげで少し肌寒い。夏なのに……。全てが白い夢だったらいいのに……。
つづく
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