作:武田まな
作業は難航した。その様子を物語るかのように、机の上には消しゴムのカスの山が築き上げられた。
山を築き上げた二人は、今、頬杖をして宙を見据えていた。早い話、行き詰ったのだ。
「少し休憩するか? 蔵木……」
「そうですね。先輩……」
図書室を後にした二人は、自動販売機で缶コーヒーを買うとベンチに腰掛けた。あらぬことにベンチは、暴力的までに熱せられていた。となれば、木陰にあるベンチに移動し膝をがくがく震わせながら慎重に腰掛ける始末だった。
蔵木ミカは缶コーヒーを額に押し当てて「冷たい」と言い、獣のような唸り声を上げた。
森野カオルは自分の缶コーヒーのプルトップを摘まみ取り、蔵木ミカに渡した。
蔵木ミカは缶コーヒーを額に押し当てたまま、渡された方のコーヒーをすすりはじめた。まるでコーヒーのコマーシャルみたいだな、と森野カオルは思った。それは二つの缶コーヒーと、凛とした姿勢が相まっての結果でもある。
ともあれ、二人はだらしなく脚を投げ出して、ふやけた気分を味わうことにした。
いつしか蔵木ミカの額の缶コーヒーには、無数の水滴が付着していた。また、それにあわせて彼女の額も濡れていた。しかし、そんなことは気にも留めず、彼女はおもむろに口を開いた。
「森野先輩。一人の人間がこの世界で最も高い所に立ったとしても、見渡せる景色、あるいは見渡せる世界は限られているんです。所詮、一人の人間が全てを捉えることなんて不可能なんです。でも、地形図を眺めることである意味それができてしまうんです。それは等高線や地図記号によって秩序がもたらされた結果でもあるんです」
「なんだかロマンチックに聞こえるな、それ」
「ハハハ、そうです。地図ってロマンチックなんですよ」
「なあ、蔵木」
「なんですか?」
「君が地形図を作成する理由って何だ?」
「それは自分の欲望を満たすためですよ」
その言葉は、昨夜の里実ワカバと重なった。昨夜、あれから色々と考えたのだ。先輩のこと、里実のこと。けど、どうすればいいのか分からなかった。夜の迷路に出口なんてなかった。めくっても、めくっても本の頁は減っていかなかった。
「先輩、急に真面目な顔して、どうしたんですか?」
森野カオルは頬を両手で叩くと言った。
「なあ、蔵木。功利主義って知っているか?」
「それ、バカにしているんですか?」目を細めてムッと答えた。そして、額に押し当てていた方の缶コーヒーを、森野カオルに渡した。
兎にも角にも森野カオルは、温くなった缶コーヒーを飲むしかなかった。
続けて蔵木ミカは言った。
「もちろん、知っていますよ。そんなことくらい」
「じゃあ、例えば、あるところにレモンさん、ミントさん、ミドリ君という人がいました。ミドリ君は、レモンさんに惹かれています。一方、ミントさんは、ミドリ君に惹かれています。ひょんなことから、レモンさんとミドリ君の距離が縮まる出来事が起こりました。その結果、二人は親密な関係に発展してしまい、ミントさんは……」
森野カオルは言葉を切った(こんな例え話なんかしてどうかしている)。
蔵木ミカは後を引き取るようにして話しはじめた。
「いわゆる功利主義のディレンマってやつですね。二人が幸福になり、一人が不幸になる。みんなが不幸でいるより、きっとその方がアソシエーションにとって良いことだと思います。でも、森野先輩。そう割り切るには、まだ経験が不足しています、あたし。経験が不足しているあたしだからこそ、真の功利主義は全員が幸福になるってまだ能天気なこと思っていたいんですよ。きっと、レモンさんはそう思っているはずです」
「そっか、そうだな。ありがとう蔵木。君がナイチンゲールに思えたよ」
「えっ、急にどうしたんですか? さっきから変ですよ。先輩」
「なあ、そういえば、どうしてレモンさんならそう思うと思ったんだ?」
「だってミントさんって、里実先輩のことですよね。だとすればレモンさんって、あたしのことだったりして……」
あらぬことを考えている輩がここにいた。なので、森野カオルはシレっと言わせてもらった。
「蔵木、さっきから気になってきたんだけど、缶コーヒーのへりの痕、額にくっきり付いているぞ。何だか地図記号みたいだ」
彼女は缶コーヒーの底の丸いへりの部分を、額に押し当てていたのだ。何故、横にしなかったのかは謎である。ともあれ、蔵木ミカは「なんてこった!」と声をあげ鏡を求めて走り出した。
五分もあればゆで卵が出来てしまいそうな暑さだった。森野カオルは缶コーヒーをちびちびとやりながら、セミの鳴き声に耳を澄ませていた。すると遠くから蔵木ミカの叫び声が聞こえた。
さて、図書室にもどって作業の続きをせねば。それにしてもゾンビに遭遇したナイチンゲールみたいだったな、アーメン。
つづく
アウトドアにまつわるショートショートを綴っています。
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