作:武田まな
電車は里実ワカバのアパートメントのある最寄り駅に到着した。
改札を出た里実ワカバと森野カオルは、しっぽりと歩いていた。そんな二人の会話はシンプルなものだった。まるで深夜に行うシリトリといった風である。
そのシリトリの順番からして、次は森野カオルの番だった。しかし、言葉が見つからなかった。そうなれば、目の前の看板の文字を読み上げるしかなかった。
「アスペルジュ」どんな意味なのだろう?
里実ワカバは立ち止まり、森野カオルが読み上げた看板に目をやった。
「フランス語でアスパラガスって意味よ。ケーキ屋さんなのに不思議よね」
「そうだな」と森野カオルは、そっと返事をした。「なあ、里実。大丈夫か?」
「うん。もう平気……。ねえ、カオル。これで四回目。それ」
「ん?」
「大丈夫か? て尋ねたのが」と里実ワカバは言い、指で数えながら「歩道橋でしょ。電車に乗る前でしょ。電車から降りた後。そして今。ほらね、四回目」
「そっか」
「カオルのどじ」
そして里実ワカバは、片足を上げバランスを取る身振りをはじめた。これからプライベートな空間で交わされる会話は、厭わしいものになること請け合いだ。でも、今は彼と一緒にいられる。ささやかではあるが、欲望は満たされている。
里実ワカバのアパートメントの目の前の道には、小さな画家がチョークで描いたバナナの絵が展示してあった。それを見て森野カオルは、昨夜の出来事を思い出した。
「カ、カオル。よかったら紅茶でも飲んでいってよ」と里実ワカバは、早口で言った(つい力んで早口になってしまっただけのこと)。
「じゃあ、遠慮なく」
「あのさ」と里実ワカバ。そして、回れ右をしてはにかみながら「五分、いや三分でいいから待っていてくれる? 部屋、片付けてくるから。だって、急だったから……」
「五分でも十分でも待っているよ」と森野カオルは、返事をした。
そして里実ワカバは、部屋に駆け込んだ。
それから、十五分後。森野カオルは里実ワカバの部屋に招かれた。
「里実! そ、それ」
「遅くなってゴメンね。今、紅茶淹れるから適当に座って待っていて」驚いている森野カオルをよそに、里実ワカバは湯を沸かしはじめた。「散らかっているでしょ? 結局、中途半端に片付けたほうが変に目立つかなって思って、そのままにしてあったり、してなかったり……」
森野カオルは宙に向かって問いかけるように、目をしばたたき続けた。
続けて里実ワカバは、湯沸しに視線を据えたまま言った。
「あんまり、まじまじと見ないでよね。恥ずかしいから」それは散らかっている部屋のことだった。いや、部屋のことじゃなかった。ん、どっちだろう? 自分でもよくわからないや、もうどうにでもなれ。
「あ、あの」
あろうことか二人の声が重なった。
「カオルから先に言ってよ」
「いや里実から先にどうぞ。その、あれだから」あれってなんだ?
「わかったわ。じゃあ、私から」
あれが通じたらしい。
「ねえ、紅茶はストレート? それともミルクティーにする?」
「じゃあ、ミルクティーでお願い」
「角砂糖は?」
「一つで」
里実ワカバは小さく頷いた。
「じゃあ、今度は僕」そして森野カオルは、心して言った。「里実、ワンピースに着替えたんだ」
森野カオルが外で待っている間、里実ワカバはレトロガーリーなシャツワンピースに着替えていたのだ。また、髪をボヘミアン風のツインの三つ編みにも結っていた。
「さっき、ビアガーデンで決まり破るって言ったでしょ。それを実行しただけよ」里実ワカバは大胆に一周回ってみせた。「どうかな?」
「えっと……」
「ねン」と催促。
「悪くないよ」
「それだけ?」
「うん、まあ、それだけかな?」驚いた後では、これが限界だった。「まあ、あれだから」だからあれって何だ?
次の瞬間、湯沸しが鳴った。里実ワカバはその音に紛れて「カオルの、おたんこなす」とつぶやいた。
つづく
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