作:武田まな
「ねえ、ワカバ。大丈夫なの?」とエミカは、男たちが話し込んでいる隙に小さな声で尋ねた。それは昼間の鼻血のことである。また、飲むペースが速いことも含まれている。
「うん。もう平気よ。ほら」と里実ワカバは、明るく言ってのけビールをぐびぐびとあおった。それから、笑顔で「万事順調」とも言った(何やっているんだか、私)。とはいえ、そんな笑顔でエミカの表情が和らいだりする。
「そっか、よかった」
この話題に触れられると笑うのが辛いや。里実ワカバは話題を変えることにした。「ねえ、エミカ。そのノースリーブのワンピ。とってもよく似合っているわよ。素敵」
「ありがと。少し高かったんだ。でも、腹を決めて買っちゃった。そういえばワカバだって素敵なワンピ持っているじゃない。ん、最近そのワンピ見かけないけど、どうしたの?」
よりによってあのレトロガーリーなワンピースのことか……。どうしてこうなるかな、今夜は。いや、今日という日は。里実ワカバは唇をギュッと結んだ。そして、男共の様子をうかがった。アダムの末裔たちは、頬杖して滝の映像を眺めていた。滝はとてつもなく美しかった。それもあり、とある偉人の言葉を思い出した。己を一つの自我として考えることを止め、一つの流れとして生きること。
「ワンピ、もう着ないことにしているんだ、私。前にそう決めたの」
「何で、もったいない」とエミカは言い、口をとがらせて「ワカバ、スタイルがいいから、とってもよく似合うのに」
次の瞬間、滝の映像をぼんやり眺めていたはずの高橋が口を挟んだ。
「二人してややこしい決まりがあるんだな。森野はアルコール、里実はワンピースときたもんだ」
「えっ」
森野カオルと里実ワカバの目が合った。
いつもだったら高橋が二人の反応を見てからかったりするのだが、今夜は違った。高橋は無関心を装い映像を眺めているのだ。表情一つ変えないで、まるで無色といった風に。
よからぬ気配を察したエミカは、こめかみを指で押さえると目を伏せた。
四人の席だけ静けさが覆う。
だが、その静けさも長くは続かなかった。というのも高橋がチューインガムをパチンといわしたからだ。それと同時に、エミカの鋭い視線が高橋に注がれた。
そんな中、里実ワカバは喉から言葉を押し出すように言った。
「私の決まりって、自分が傷つきたくないから作ったものなの。傷つかない方が近道だと思っていから。そうする方が上手くいくと思っていたから。でも、そうじゃなかった」一呼吸置くと「ねえ、カオルはどうしてなの? 理由おしえて?」
「僕の決まりには、里実みたいな理由はないんだ。その……成り行きだったから」いや、アプリオリだったから。それは言葉にしなかった。
「そうなの」どんな成り行きなのか気になる。しかし、里実ワカバはその理由を尋ねるよりも、試すことを選んだ。「私、もう決まり破ろうかな。だからカオルも一緒にそうしてよ」
「悪い里実。それは……」
手を伸ばせば彼の体に触れることができるのに、遠くに感じる。それは、今日、あの先輩のスケッチを見たからだ。だからって、そんなのあっさり認めたくない。
里実ワカバは声を絞り出した。それはウエットな声だった。
「いつまでも追いかけていたくない。カオルに追いつきたい。追いついて、同じ時間を共有したい」そう言い終えると、どこからともなく金具臭い匂いがした。テーブルの上に描かれた赤いドット模様がその原因である。涙より先に鼻血なんて、私のあほんだら……。
エミカは羽織っていたカーディガンを、里実ワカバの背中にかけると、化粧室に連れて行った。
「……なあ、森野」と高橋は、女たちの後姿を見守りながらそう言った。「お前たちの距離って不自然だよ」
つづく
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