作:武田まな
〔一日前の夜の出来事〕
電話のベルが鳴った。ルルルル、と一回、二回、三回。
「はい、もしもし杜葉です」
「今、到着しました。アパートに。あ、えっと、森野です」
「色々と順番、逆さまのような気がするんだけど」
「逆立ちすれば直りますよ、それ」
「じゃあ、今度試してみるわ」と、しなやかにかわしてから「そんなことより、今日も運転お疲れ様」
「エマ先輩だって、お疲れ様です」
「助手席に座っていただけよ、私」
「じゃあ、撤回してもいいですか?」
エマ先輩はオーディオのスイッチをOFFにすると、壁にもたれた。それから、「よかないわよ」と言い、耳を澄ました。
森野カオルも同じように壁にもたれて耳を澄ました。
二人は背中合せにもたれているかのようだった。しばしの間、そんな風にして一日の終わりに訪れる静けさをテイスティングしていた。
「ねえ、可笑しい」とエマ先輩は、言葉通り告げた。
「ん、何がです?」
「何もかも」
「何もかも?」
「そうよ」
「じゃあ、何かの手違いで、エマ先輩のあの恥ずかしいラジオネームが、会社の人たちに知れ渡ったとしても?」
「ええ、もちろんよ」とエマ先輩は、キッパリ答えた。「今だったらゆるすわ」
「前から思っていたんですけど、エマ先輩って今が似合いますよね。未来や過去じゃなくて、今が」
「それ褒め言葉として受け止めていいのかしら?」
「yes」
「ありがとう。嬉しいわ」
「どういたしまして」
「ねえ、カオル」
「ん?」
「すごく綺麗な湖だったわ」
「うん。すごく綺麗な湖でした」
「レモンも、コーヒーも、クロワッサンも、最高だったわ」
「うん。全部、最高でした」
「それじゃあ、また来週」
「ええ、また来週」
二人はもう一言だけ言葉を交わした。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
電話を終えるとエマ先輩は、洗濯を済ませてからシャワーを浴びた。それから、少し迷ったが最後のレモン(明日、レモンを調達せねば)と、ペリエをテーブルの上に並べて日記をつけはじめた。心地よい疲れのせいもあって、まるで白い夢の中の出来事をしたためているようだった。
日記をつけ終えると、テーブルに突っ伏して腕時計に目をやった。秒針は休むことなく動き続けていた。いったい何のために? おそらく目に見えない時間とやらを、音と伴に可視化するためだろう。たいそうご苦労なこった。
エマ先輩は日記を引き出しにしまうと、今度は便箋を取り出して絵を描くことにした。
絵を描く気分になったのは、森野カオルの真似をしてみようと思ったからである。彼の感じているフィーリングを味わうことにしたのだ。だから、何か具体的なものを描こうとしていたわけじゃない。ただ、ペンを自由気ままに動かしていただけ。
……ん? ふと右手が無意識に動いていることに気が付いた。そして、それを意識した瞬間、右手の動きが止まった。一瞬、エマ先輩は無意識を意識することで生じるタイムラグの中にいた。
タイムラグが解消し便箋に目を落とすと、そこには身に覚えもない景色が描かれてあった(我ながら絵のスキルに驚いた)。
便箋にはつつましやかな海が描かれてあった。そんな海に向かって長く真っ直ぐな桟橋がかけられていた。また、特徴のある海岸線には木々が青々と生い茂っていた。まるで絵葉書のような景色ではないか、とエマ先輩は思った。けど、絵葉書を見ているというよりトリックアートを見ているような気分になるのは、何故だろう? 何かが気になる。何かがだ。景色が具体的すぎるとでもいうのだろうか?(妙に説得力を感じる)それもあるが、もっと違う何かだ。無意識の領域に訴えてくる何かだ。今まで感じたこともない不思議な感覚ではないか。段々、その場所のことを知っているような気にもなってくる。なんだか懐かしい(これって、デジャヴなのか?)ん、そういえば、カオルと再開した夜にも……。
エマ先輩はバッグを手繰り寄せると、トーシューズのイラストが描かれたシステム手帳を引っ張り出した。それから、レモンの皮の果汁を指先に馴染ませて、頁を素早くめくった。
すると、とある頁に全く同じ景色が描かれているのを見つけた。多少アングルが違っているものの、それ以外は全て同じである。
私はカオルと再開した夜にも同じ景色を描いていたようだ。確かあの時も……そう、景色を描いていた自覚なんて無かった。紙飛行機をこさえてから、ペンシルを自由気ままに動かしていただけ。だから何を描いたのか確認しなかった。そもそも確認する必要もなかった、というべきか。
ともあれ、この景色は私と何か関係があるとでもいうのだろうか? それとも単なる想像力の悪戯? もうもうたる気分だ。どうしてくれる。
……誰かに相談したい。こんなこと相談できるのは、彼しかいない。今から電話をかけてみよう。いや、よそう。もう遅い。とっくに疲れて寝ているはず。だから、明日……。
エマ先輩の視線は、二人だけの時を刻む腕時計に注がれていた。わがままでいたい、私。
つづく
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