作:武田まな
しばしの間、二人はフェンスにもたれて遠くを見ていた。
そんな沈黙の末、エマ先輩はおもむろに口を開いた。
「あのさ、スニーカーの紐、解けているんだけど」
「まあ、いつものことです」
「あら、そ」と相槌を打って「じゃあ、いつもと違うメガネは、どういうことかしら?」
「階段でデーハーに転んだんです」と森野カオルは、けろりと答えた。
「嘘が下手」
続けてエマ先輩は言った。
「聞いていたんでしょ?」
「すみません」
「私の方こそ謝らなくちゃいけないのに」森野を傷つけたあの男が許せなかった。「ごめんね。巻き込んじゃったみたいで」
「先輩が謝ることないです。あっ」止血が不完全だったのか、鼻血が垂れてきた。
森野カオルは慌てて鼻をつまんだ。
エマ先輩はハンカチを取り出すと、森野カオルの手をどけて鼻をつまんだ。
ハンカチはおろしたての良い香りがした。と同時に、血で汚れて申し訳ない、と森野カオルは思った。
ややあって、鼻血は止まった。
「へえ、驚きました。まるで魔法ですね」
「魔法じゃなくて奇術よ」とエマ先輩は言い、怪しい手の動きをしてみせた。
「どうやらそのようで」
二人はクスッと笑った。
「さて、風も弱まったし、一丁、紙飛行機でも飛ばすとするか」
エマ先輩はバッグの中からレポート用紙を取り出すと、紙飛行機をこさえた。それから、翼の角度を調整すると、紙飛行機を空に送り届けた。
紙飛行機はまばゆい光の中を飛んだ。
エマ先輩は紙飛行機を見上げていた。そして、紙飛行機が気流を捉えたのをしおに、手をかざして動かしはじめた。
驚くなかれ、その手の動きに合わせて紙飛行機は、飛んだりしなかった。それどころか墜落した。
墜落した紙飛行機を見てエマ先輩は叫んだ。
「よし決めた!」また、こうも叫んだ。「金輪際、アルコールなんか飲むもんか」
「同じく、そんなの飲むもんか」と森野カオルは、重ねて声をあげた。「もともとアルコール好きじゃなかったし、飲むと頭が痛くなったし」それは嘘だった。
エマ先輩は口をあんぐり開けて驚いていた。予想外だったのだ。
続けて森野カオルは言った。
「ところでエマ先輩。アプリオリって単語の意味、知っていますか?」
「ねえ、待って。何で森野までそうする必要あるわけ?」
その問には答えようとはせず、森野カオルはにんまり笑っていた。
「まったく森野ときたら」追及することをあきらめて「確か先天的って意味だったかしら?」
「ご明察」
「それがどうしたっての?」
「二人にはアルコールなんて必要なかったんですよ。先天的にそうだったんですよ」
こんなアクロバティックな思考の持ち主はそういるまい、とエマ先輩は思った。
「森野ってイカしているわ」
「今頃気付いたんですか?」
「おや、遅かったかしら」
「痛っ」
「どうしたの?」
「今頃、顔が痛くなってきました」と森野カオルは言い、苦笑いを浮かべた。
「大丈夫?」
「ええ、何とか」
「よく見せて」とエマ先輩は言い、顔をグッと近づけた。その時、どこからともなくグラスが触れ合ったような音がした。
森野カオルは音がした方に目をやろうとしたが、エマ先輩の瞳の引力から抜け出せなかった。
「早く冷やした方がいいわね。チョッと待っていて。氷、持って来るから」
「かたじけないです」
〔一年後〕
森野カオルと再会する数時間前のことである。ホテルのレストランでありふれた会話が飛び交う最中、エマ先輩は一度だけワイングラスを傾けた。
気まぐれ、ほんの出来心、自分自身を試す、etc……。
いくら言い訳を並べてみても結果は変わらない。もう変えられない。結果を認めたくないから、しゃあしゃあと言い訳なんぞ並べたりするのだ。結果から目をそらすな、杜葉エマよ。
断言しよう。後悔している。たまらなく後悔している。それだけ私にとって大切な約束だったのだ。まったく、これが失われることで初めて気が付くアレと言うやつか。傑作だな。
それから、食事会を抜け出したエマ先輩は、スーパーマーケットで森野カオルを見かけたのだ。よりによって、今夜、最も会いたくなかった人である。いや、最も会いたかった人なのかもしれない。
そしてエマ先輩は、「ねえ、森野カオルじゃない? 久しぶり」と一年ぶりに彼の名前を口にした。振り向いた彼のスニーカーの紐は、だらしなく解けていた。彼は私の知っている彼のままだった。やれやれ、ホテルのレストランで気の利いた言葉を浴びせられるより、こっちの方に私はまいってしまう。
つづく
信州のアウトドアにまつわるショートショートを綴っています。
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