かさなる 白いモラトリアムサマー

かさなる白いモラトリアムサマー 10話(4/5)

投稿日:

作:武田まな

しばしの間、二人はフェンスにもたれて遠くを見ていた。

そんな沈黙の末、エマ先輩はおもむろに口を開いた。

「あのさ、スニーカーの紐、解けているんだけど」

「まあ、いつものことです」

「あら、そ」と相槌を打って「じゃあ、いつもと違うメガネは、どういうことかしら?」

「階段でデーハーに転んだんです」と森野カオルは、けろりと答えた。

「嘘が下手」

続けてエマ先輩は言った。

「聞いていたんでしょ?」

「すみません」

「私の方こそ謝らなくちゃいけないのに」森野を傷つけたあの男が許せなかった。「ごめんね。巻き込んじゃったみたいで」

「先輩が謝ることないです。あっ」止血が不完全だったのか、鼻血が垂れてきた。

森野カオルは慌てて鼻をつまんだ。

エマ先輩はハンカチを取り出すと、森野カオルの手をどけて鼻をつまんだ。

ハンカチはおろしたての良い香りがした。と同時に、血で汚れて申し訳ない、と森野カオルは思った。

ややあって、鼻血は止まった。

「へえ、驚きました。まるで魔法ですね」

「魔法じゃなくて奇術よ」とエマ先輩は言い、怪しい手の動きをしてみせた。

「どうやらそのようで」

 二人はクスッと笑った。

「さて、風も弱まったし、一丁、紙飛行機でも飛ばすとするか」

 エマ先輩はバッグの中からレポート用紙を取り出すと、紙飛行機をこさえた。それから、翼の角度を調整すると、紙飛行機を空に送り届けた。

紙飛行機はまばゆい光の中を飛んだ。

エマ先輩は紙飛行機を見上げていた。そして、紙飛行機が気流を捉えたのをしおに、手をかざして動かしはじめた。

驚くなかれ、その手の動きに合わせて紙飛行機は、飛んだりしなかった。それどころか墜落した。

墜落した紙飛行機を見てエマ先輩は叫んだ。

「よし決めた!」また、こうも叫んだ。「金輪際、アルコールなんか飲むもんか」

「同じく、そんなの飲むもんか」と森野カオルは、重ねて声をあげた。「もともとアルコール好きじゃなかったし、飲むと頭が痛くなったし」それは嘘だった。

エマ先輩は口をあんぐり開けて驚いていた。予想外だったのだ。

続けて森野カオルは言った。

「ところでエマ先輩。アプリオリって単語の意味、知っていますか?」

「ねえ、待って。何で森野までそうする必要あるわけ?」

 その問には答えようとはせず、森野カオルはにんまり笑っていた。

「まったく森野ときたら」追及することをあきらめて「確か先天的って意味だったかしら?」

「ご明察」

「それがどうしたっての?」

「二人にはアルコールなんて必要なかったんですよ。先天的にそうだったんですよ」

 こんなアクロバティックな思考の持ち主はそういるまい、とエマ先輩は思った。

「森野ってイカしているわ」

「今頃気付いたんですか?」

「おや、遅かったかしら」

「痛っ」

「どうしたの?」

「今頃、顔が痛くなってきました」と森野カオルは言い、苦笑いを浮かべた。

「大丈夫?」

「ええ、何とか」

「よく見せて」とエマ先輩は言い、顔をグッと近づけた。その時、どこからともなくグラスが触れ合ったような音がした。

森野カオルは音がした方に目をやろうとしたが、エマ先輩の瞳の引力から抜け出せなかった。

「早く冷やした方がいいわね。チョッと待っていて。氷、持って来るから」

「かたじけないです」

〔一年後〕

森野カオルと再会する数時間前のことである。ホテルのレストランでありふれた会話が飛び交う最中、エマ先輩は一度だけワイングラスを傾けた。

 気まぐれ、ほんの出来心、自分自身を試す、etc……。 

いくら言い訳を並べてみても結果は変わらない。もう変えられない。結果を認めたくないから、しゃあしゃあと言い訳なんぞ並べたりするのだ。結果から目をそらすな、杜葉エマよ。

断言しよう。後悔している。たまらなく後悔している。それだけ私にとって大切な約束だったのだ。まったく、これが失われることで初めて気が付くアレと言うやつか。傑作だな。

それから、食事会を抜け出したエマ先輩は、スーパーマーケットで森野カオルを見かけたのだ。よりによって、今夜、最も会いたくなかった人である。いや、最も会いたかった人なのかもしれない。

そしてエマ先輩は、「ねえ、森野カオルじゃない? 久しぶり」と一年ぶりに彼の名前を口にした。振り向いた彼のスニーカーの紐は、だらしなく解けていた。彼は私の知っている彼のままだった。やれやれ、ホテルのレストランで気の利いた言葉を浴びせられるより、こっちの方に私はまいってしまう。

つづく


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